今宵の夕食は近場で済まそうと狸小路界隈を適当に歩く。赤い暖簾が目に止まった。そうだラーメンにしよう。入店した。それが一徹だった。

生ビールを頼みラーメンを注文する。だがビールを呷ったところで異変が起こった。右目のコンタクトレンズがズレてしまったのだ。目蓋の上に指を当てて元に戻そうとするが上手くいかない。そうこうしているうち痛覚が拡散してレンズの在り処が判らなくなってしまった。仕方ない。鏡のある場所に行かねばならない。そこでトイレに駆け込んだ。
一徹の店構えは奥行きが広い。その突き当りにトイレがある。トイレに向う途中で驚いた。何と奥にジンギスカンの店があったのだ。通路にはドアもカーテンもない。真直ぐトイレを目指したら途中で違う店になっていたのである。要するに同じ屋根の下で2つの店が営業しているのであった。トイレは2店舗で共有しているようだ。(因みにジンギスカン屋には専用の入口があって建物の脇にある細い路地を進めば辿り着ける。後で分ったことだが。)
トイレに入って鏡に向い目を大きく見開く。だがレンズは見当たらない。灯りが足りなくてよく見えない。そこでジンギスカン屋の女将さんに事情を話して懐中電灯を借りた。のみならず手伝ってもらった。つまり懐中電灯で鏡に映る眼球を照らしてもらったのだ。何しろ僕の左手は目蓋を広げるのに使われ右手は目蓋の上からレンズの在り処を探るのに使われている。懐中電灯を持つ手がないのである。
2人で捜索してもレンズは見つからない。業を煮やした女将さんが助っ人を連れて来た。常連の男性客のようだ。彼が懐中電灯を持ち女将さんは僕の横で鏡に眼を凝らしてレンズの在り処を一緒に探してくれることになった。大の大人3人がかりでの捜索活動である。
奮闘すること数分後、目尻にレンズの端らしき物体が現れた。
ふぅ…。
後は自分で何とかしますと女将さんと常連さんに御礼を述べる。それから更に数分間の格闘を経て漸くコンタクトレンズは眼球から外れてくれたのであった。
レンズを水洗いして装着し直す。トイレを出て2人に改めて御礼を言う。一徹に戻ると既にラーメンは出来上がっていた。さもありなん。主人が訝しげな顔で僕を見つめる。そりゃそうだろう。いきなりトイレに行ったと思ったらいつまで経っても戻って来ない。その間にラーメンはすっかりのびてしまった。出来たてを食べてこそラーメンだろが。お前さん俺の作ったラーメンをナメてんのか。そんな憤りが表情から見て取れた。
正直に事情を説明した。すると主人の顔が納得というか諦めというか哀れみというかそんな感じに幾分変化した。どうやら怒りは収まったようだ。
それからのびたラーメンを食べた。スープはこってりしている。だが麺がふやけてしまって正確な味は分らない。それでも残さず平らげた。気の抜けたビールも飲み干した。
食事中に3人連れの客が入店しようとして主人に「もう閉店です」と断られた。「えぇっそりゃないよ、俺達東京から食べに来たんだよ」と1人が言った。「すいません閉店ですから、また明日いらして下さい」と主人は答えた。その膠も無い客あしらいを聞きながら「この人まだ怒ってるのか」という不安と「この店そんなに有名なのか」という関心が胸をよぎった。
食事の後で主人に味はどうだったか尋ねられた。美味しかったですと答えた。ホントかよという顔をされた。
それから焼酎のボトルを出してきた。1杯サービスしてくれるらしい。巨人の吉村禎章2軍監督が作ったのかアドバイスしたのか販売しているのかとにかく何らかの形で関わっている焼酎だそうだ。美味かった。こちらは本当に美味かった。
後日ネットで調べたら一徹はやはりけっこうな有名店だった。と言うか一徹の前にあった富公という店とその主人が相当有名だったらしい。一徹の主人は富公の味に心酔していてその跡地に店を開いたそうだ。
これはもう1度食べにゆかねばなるまい…。
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